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 トップページ > よみもの > 10月1日第4号  


NPOや共生社会についての時評を月2回更新でお送りします!


タイトル 共生社会と人権
著者 鍋島祥郎
連載 第1回 第2回 第3回

第1回 (注1

学力低下論とナショナリズム(1)

はじめに

 「分数がわからない大学生」(注2)をきっかけとする学力低下論争は、いったいどのような実態を背景にして、どのような意図を持つ人々によって展開されたのであろうか。この論争は学力低下を叫んで巻き返しをはかる能力主義イデオロギーという単純な図式ではとうてい理解できない問題を含むものである。本稿はそこに錯綜する状況と様々な意図を解きほぐす試みである。同時に本稿は、あらためて国民国家体制が人間、人民、市民にとってなんであるのかを、学力を焦点として語る試みでもある。

センセーショナリズムとしての発生

 岡部、戸瀬、西村らによる『分数ができない大学生』は、そのネーミングの絶妙さから学力低下問題を一気にマスコミの関心事に押し上げた。バラエティ番組までもが街頭で大学生を見つけては分数の足し算をさせて、通分ができない様子を会場の大爆笑とともに放映し続けた。その大爆笑する会場の老若男女のどのくらいが分数の足し算を苦もなくできるかはまことに疑わしいにもかかわらず、分数ができないのは最近の大学生に特有の傾向であるかのような言説がバラかまれた。

 1872年の近代日本国家の学制創設以来から考えたとき、教育水準を云々するにあたって「分数」が基準とされるのは驚異的なことである。いま日本社会では分数の計算ができてあたりまえの状態にまで教育水準を上げてきたことにまず驚くべきであろう。いま人類的規模で考えれば、問題は依然として文字の読み書きができる人口を一人でも増やすことが課題とされているにもかかわらず、分数のできない大学生を、国をあげて笑いものにし、それが国家を左右する問題であると眉間に皺をよせて議論するのである。そのこと自体が、日本社会がいかに物事をローカルで近視眼的にしか考えない体質を有しているかを物語っている。

 このようにして、1999年から2003年ごろにかけてマスコミは「学力低下」に関する記事を流し続けた。もっとも驚いたのは、2003年元旦に日経新聞は、一面トップに「学力低下」を据えたのである。

ナショナリズムとしての学力低下論

 マスコミ各社の報道はさすがに「日本人の学力低下」という、あからさまに政治的に正しくない表現は一部を除いて回避されてきた。しかしその慎重さとはうらはらに、主張する内容は常にナショナルな危機感を煽る共通する傾向を持っていた。それは端的には、「分数」が象徴するように、学力低下論がもっぱら理数系の知識とスキルに焦点を当てていたことに現れている。読解力など文化系の知識・スキルも学力低下の側面としてふれられるようになったのは、PISA(OECD国際学力比較調査)でもっとも成果をあげているのがホリスティックなカリキュラムを志向するフィンランドであることが喚起されて以降の最近のことである。

 理数系中心の学力低下論はナショナリズムと密接に結びついている。ある新聞記事では、成人の学習関心に関する国際比較調査によって日本人の理科への関心が低いことと、子どもの理数系の学力低下とを結びつけ、日本が技術立国でしか生き残ることができないとすれば、学力低下は日本の没落を意味すると論評していた。こうした記事に代表されるように、センセーショナルな学力低下論は、国民経済の維持発展の論理と表裏一体のものである。日本の国民経済が原材料輸入−加工品輸出という「技術」に著しく依存している状況においては、理数系の学力の高低は国民国家の維持に直結する問題だとの共通認識がその背後にあるのである。今日における国体護持のイデオロギーは主として国民国家としての経済的力量にその根を置いている。国民概念に基づく排他的な利益共同体を社会集団構成の原理とする差別的かつ容易に暴力的となりうるこのイデオロギーの再浸透が、学力低下論の担っていた政治的役割であったという見方もできよう。

 バブル経済崩壊以降、子どもの社会的地位獲得のチャンスが著しく厳しくなっていることを実感している保護者層は、教育機会や教育投資効果に敏感になっている。その状況は、国家による教育への介入を招き入れやすい状況をつくると同時に、限られた教育資源を誰に配分するかの判断において、外国人など「国民でない」と見なされる、あるいは障害者など「国民経済に貢献しない」と予断されがちな人々への排除の論理を、マジョリティー市民に発生させやすい。公教育とは国民に対する国家のための教育では決してない。人類の平和と個人の権利保障を前提として、社会の公共性に関する市民社会の理解と判断に基づいて推進されるべき個の利益に還元され得ない次世代育成の営みである。ナショナルな学力低下論は、生き残りをかけた個人のエゴと、近視眼的なナショナリズムを結託させ、平和と人権の原則をないがしろにし、社会的排除への露払いとなる危険性を持っていることを十分に認識しておかねばならない。

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[注]

1.本稿はアジェンダ・プロジェクト編『アジェンダ』第10号、2005年9月15日発行に掲載した拙稿に加筆修正したものである。

2.岡部恒治・戸瀬信之・西村和雄『分数ができない大学生』東洋経済新報社、1999年。

 

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