第2回
学力低下論とナショナリズム(2)
1.自己像を欠く日本人の教育観
学力低下についての様々なデータにおいて、日本人だけを対象としたものはない。大学における調査でも、小中高校における調査にしても、調査対象には在日外国人や留学生を含んでいる。私の知る限り、在日外国人の学力は上昇しており、それ以外の日本人の学力だけが低下しているという話は聞いたことがない。いま教育の現場で起こっていることは、外国籍の子どもたちを含む学力低下だと言っていいだろう。この問題をことさらに日本人の知力と結びつけて論じるところにも問題がある。こうしたナショナルな学力低下論は、日本の学校教育制度が日本人のための制度にとどまらず、その制度内に在籍する外国人の子どもたちのものでもあることを忘れさせてしまう。そして外国人に対するさらなる排除の態度を教育現場や市民にもたらしかねない。
社会のグローバル化が進む中でどれほど多くの日本人の子どもたちが外国の学校で教育を受けているかを考えたとき、今日における学校教育制度がもはや国民教育にとどまることはできないことは明白である。それぞれの国民文化にレスペクトを払いつつ、互恵主義的な公教育の国際ネットワークがめざされるのは必然的であり、OECDやEUが教育の国際比較に熱心なのはもはや公教育が一国の制度の中にとどまらない性質を認識しているからに他ならない。
日本人の中には、外国には日本人学校をつくり、諸外国も日本にそれぞれの国民学校をつくればいいではないかと主張する人もいよう。だとするならば、阪神教育闘争にはじまる「外国人学校否定」に奔走した日本の教育政策の根本的な修正が必要となろう。しかも、諸外国には経済的に学校を設置運営することが困難な国がいくつもある。まして日本はもっとも物価の高い国であって、そもそも経済的に外国人学校の設置を困難にしている。日本の学校から排除されて行き場を失ったブラジル人やペルー人の子どもたちのための学校がいま経営的に厳しい困難に直面しているが、日本政府はこうした学校への支援はおろか、学校としてさえなかなか認知しない。そのような政策的スタンスは、日本の植民地政策に基づく定住外国人(主として台湾・朝鮮・韓国籍)の人々が経営する民族学校を認知してこなかったということに端を発しており、植民地主義はいまだにこの国の公教育政策を歪め続けている。外国においては経済力にものを言わせて日本人学校に日本人を囲い込み、国内においては外国人の学校を認めないというスタンスに、偏狭なナショナリズムを見ない方がどうかしているだろう。日本人が偏狭なナショナリストであるというまなざしは、こうして再生産されていく。外国における日本人学校の設置は日本への帰国後の社会適応に不安を抱く日本人保護者層の要求に応えるものであり、それ自体が問題とは言えない。だがその政策が持つ国際社会における政治的意味やその問題解決のためにどのような対話が諸国民間で必要かについてどれほどの日本人が認識しているだろうか。首相がつくった公教育に関する諮問機関の名称は「教育改革国民会議」であり、その報告が日本人の再生産にのみ焦点をあてていることからしても、国家レベルにおける公教育認識がいかにローカルなものであるかが知れよう。また、教育基本法も公教育を「国民の国民による国民のための教育」を定義しているのであり、日本国憲法も主権を「人民(ピープル)」ではなく「国民(ネイション)」においていることも、今となってはナショナルな教育論議に動員されやすい性質を有している。そのようなグローバルな認識を欠落させているのが日本における市民及び国家の公教育認識の現状である。このように、日本人が自己像を欠いている事態は、学力低下論はナショナルな感情を日本人の教育観に浸透させる性質を有するのである。
2.ゆとり教育批判
このようなナショナルな認識に基づく学力低下論は、その批判の矛先を文部省(現、文部科学省)が1980年代より推進してきたカリキュラムの緩和と総合化を柱とするいわゆる「ゆとり教育」に向けている。文部科学省はゆとり教育型の新学習指導要領を2002年、2003年に導入した直後から、学力向上フロンティア事業など学力向上政策を打たざるを得ない状況に追い込まれた。
ゆとり教育路線はナショナルな学力低下論が批判する面とは異なった問題を含んでおり、学力向上に関する政策を文部科学省が現時点で持つことはナショナリズムへの迎合とは必ずしも言えない。学校における学習時間や総合学習と教科学習のバランスについて一定の修正を加えること自体が問題なのではない。この点については後述する。問題は、日本の国家経済を支えるために日本人の子どもをより強く束縛しなければならないとする国家主義的な教育観が教育政策の是正の論理と後解釈されかねないことである。
このような「日本人を鍛え直す」と言わんばかりの現状解釈がまかり通り、その後の教育政策において踏襲される事態となれば、権利としての教育機会の保障や、多様な個人を包摂し、かつ、社会の多様化の中で立場のことなる人々の間の関係を共生的なものへと再構築する教育の機能は後退する。その一方で子どもたちは国家経済、やがては政体護持のための単なる社会資源とみなされることとなり、国家から見て資源としての価値や有用性を見いだされない子どもはその存在自体を否定されることになりかねないからである。
実際に学力低下論が盛んに議論されるさなかに設置された教育改革国民会議の報告書 では「問題を起こす子どもへの教育をあいまいにしない 」として次のような提案が盛り込まれた。
一人の子どものために、他の子どもたちの多くが学校生活に危機を感じたり、厳しい嫌悪感を抱いたりすることのないようにする。不登校や引きこもりなどの子どもに配慮することはもちろん、問題を起こす子どもへの対応をあいまいにしない。その一方で、問題児とされている子どもの中には、特別な才能や繊細な感受性を持った子どもがいる可能性があることにも十分配慮する。
<提言>
(1)問題を起こす子どもによって、そうでない子どもたちの教育が乱されないようにする。
(2)教育委員会や学校は、問題を起こす子どもに対して出席停止など適切な措置をとるとともに、それらの子どもの教育について十分な方策を講じる。
(3)これら困難な問題に立ち向かうため、教師が生徒や親に信頼されるよう、不断の努力をすべきことは当然である。しかし、これは学校のみで解決できる問題ではなく、広く社会や国がそれぞれ真剣に取り組むべき問題である。
この提案では「問題を起こす子ども」「問題児」とは、「そうでない子どもたちの教育を乱す」存在であり、これらの子どもたちによって「他の子どもたちが学校生活に危機を感じたり、厳しい嫌悪感を抱いたりする」原因であると認識している。現象的には多くの保護者や子どもたちの目から見ればそうであることは多々あろう。だが、問題児とそうでない子どもを弁別し、そこに利害の根本的な対立があるようにこの現象を定義づける思想が、すべての子どもの権利保障ではなく、「そうでない子どもたち」を中心として国家を維持発展させようとする志向性を持っていることは明らかであろう。しかも「問題児とされている子どもの中には特別な才能や繊細な感受性を持った子どもがいる可能性があることも十分に配慮する」などという付言は、かえって「問題児」を切り捨ての対象とする意図を鮮明にするものでもある。
学力低下論が是認され、学力低下の原因を教育改革国民会議が主張するように「問題児」による足引っ張りによるものと定義すれば、問題児排除の態度が正当化される。「問題児」の拡大解釈は、文化的、政治的な意味での「問題児」、すなわち「非国民」につながると見るのは、杞憂に過ぎないのだろうか。
3.階層間格差拡大としての学力低下
しかしまちがってはならないのは、日本の学校における達成水準は下がっているということは事実だということである。これについて詳しくは私たちの調査結果をごらんいただきたい 。起きている現象をかいつまんで説明すると、階層的下位層の学力が急激に落ちているために、学力の上位層と下位層の格差が開き、学力分布は二極化傾向を強めており、その結果、全体の平均点も下がっているということである。この現象が1990年代に入ってから顕著になったことから推察すれば、バブル経済の崩壊と、その後に急激に進行した企業の雇用ポリシーの変化が関与していると思われる。
ちまたで「学力低下」と叫ばれている問題の実態は階層間格差の拡大であるならば、学力低下問題を「日本人の危機」と煽るナショナルな視点は、それがナショナリズムであるという意味で問題なだけではなく、不平等が拡大する事態から目をそらさせる煙幕と言う意味でも問題である。
さてこうした階層間の学力格差が拡大するまっただなかで文部科学省は「ゆとりの教育」を実施してきたのである。その矛先は、加熱する受験戦争の緩和にあった。だが実際に受験戦争はベビーブーマーが去った1975年をピークに緩和する傾向は明白だったわけであり、むしろ現在では多くの大学が定員割れという危機を迎え、東大ですら広報活動をしなければ「客をとられる」という事態になっているのでる。一過的な受験戦争の問題を社会の根元的な問題であるかのように煽ってきたマスコミは、いまや学力低下一辺倒である。こうしたいい加減な社会認識に振り回されて教育政策を運営しているのが文部科学省の実態である。
では現場でどのように「学力」を認識しているのか。社会変革への希望があるかないかは、そこにかかっている。
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[注]
1.本稿はアジェンダ・プロジェクト編『アジェンダ』第10号、2005年9月15日発行に掲載した拙稿の再掲である。
2.教育改革国民会議『教育改革国民会議報告−教育を変える17の提案−』平成12年(2000年)12月22日。
3.苅谷剛彦、志水宏吉編『学力の社会学』岩波書店、2004年。 |