第二章 追走
1.“男”を背負う
巡回相談員として現場を歩く中で、実際に就労意欲を持つ男たち、自立を希望する男たちが『自立支援センター』を経由し、就労退所という“出口”をどのように模索しているのかに興味を持ち続けていた。私は、既に市内各地域で『自立支援センター』から就労退所した男たちの再野宿化を発見していた。’02年の年末、タイミングよく『自立支援センターおおよど』に呼び戻され本来の施設相談員に復帰した。そして自分が巡回相談員として、当センターに多くの入所者を送っていたことも再確認させられた。つまり,野宿地で面談した当事者をセンターに入所させた後、今度は彼らの生活を施設内でも追関与することになったのである。なお第二章以降の「相」は佐々木である。
[入所者F氏との面談。 ‘01年12月頃]
相:「こんな仕事先があるんですけど」。
F:「どんな仕事? ハア給料15万か。税金引かれたら残らんね」
相:「何にもない状態より、早く仕事探しを始めた方がいいんとちがうんかなと思って」
F:「あのネ、紹介してもらって悪いけど、僕は昔解体仕事なんかで1日5万ほど稼いだこともあったんですよ。結構稼ぎよった。月15万なんてやっていけんよ」
相:「それはすごい。それじゃ無理やな。Fさんの2、3日の稼ぎやもんね」
F:「他の困っている人に紹介してあげてくださいよ」
相:「わかった、そうする。そやけど今現在Fさんは日当5万円もらえる仕事してるんですか?」
F:「……いや無いよ。あなたいい仕事を探してよ」
相:「だから僕の紹介できる仕事は今これだけやねん。Fさんも困ってるんと違うかな思って話してみたんやけど」
とくに往時、大工・解体・仮枠・玉がけ(注8)などが多く求められていた頃は、腕のいい職人が求められ、1日に複数の仕事を掛け持ちして働いていた連中がいた。F氏もその一人だ。私は「金はいくらあっていいもんやけど、たくさんの給料とっても結局は苦労したんやから、少ない給料の中でいっぺんやってみましょうや、これまでの価値を変えてみながら」と話し、F氏も「今しんどいからな」ということで仕事に行くことを納得した。
2.仕事を求めて
日本経済が高揚している時代には、肉体を資本に稼いでいた男たちは多かった。海外旅行や豪勢な物見遊山、連日のキタ・ミナミ徘徊など、私自身経験したことがない話題を幾人もの男たちから聞かされた。その中には誇張や見得、虚飾も話のうちと想像されるものもあったが、釜ガ崎という寄場をシンボルに、R&D(注9)や消費ニーズなどと声高な市場原理が我国を駆け抜けた時代であり、身体のみを信じて働き続け、稼ぎまくり浪費と借財で墓穴を掘り急いだ男たちが確実に私の身近にいるのである。
F氏はその典型といえる男かもしれない。稼げる仕事なら何でもいい。その賃金が高ければ高いだけいい。そして、仕事はどれも同じや、能書き言わんと賃金のいい仕事を探さんかい、というのが私たちに対する(F氏のみではない)多くの男たちの共通項であった。
「実際の仕事は、そりゃ、いろいろ違うさ、でもごらんよ、結局はどれも同じ目的でやってることなんだぜ、とどのつまり賃金目当てなんだ。どれもこれもおなじことなんだよ」(P.Willisp.247)。ポール・ウィリスが詳細なエスノグラフィーで描くイギリス労働者階級における事情は、私の周辺にいる男たちと寸分変わらない。
F氏には、かつては潤沢であった羽振りの素となる持ち駒が今は皆無なのだ。やむなく仕事に行く約束をしたまでのことである。仕事に就いたその日から、F氏は上司の悪口や会社の問題点を私に訴えながら、結局は永続きせずやめてしまった。
F氏は‘46年生まれ。ある県立水産高校を中退。鯖漁船の船員を10数年間続けた後来阪し建設業をはじめている。‘96年には独立し、何人かの作業員を雇いながら自営をしていたらしい。この頃は生活もかなり余裕を持っていたようだ。彼は私が『自立支援センターおおよど』を辞めた数ヶ月後就労退所している。この契機となったのは、大阪府森林組合が森林や林業に就業希望する人たちに「新就業者研修」(注10)を実施し、知識や技術を学ばせたうえ、研修終了者をハローワークに登録させ、森林業務が発生すれば雇用につながるという計画を知ったからだ。当計画はどういうわけかN区ハローワークのみの扱いで、森林作業に興味を持つF氏と同行しN区ハローワークに行き担当者から説明を受けた。F氏は俄然意欲を見せ、先ずは研修申し込みからスタートした。約10日間の研修後彼はハローワークに登録した。
[森林作業後センターに帰寮したF氏が相談員の私を訊ねる ’02年2月頃]
F:「いやあ、ひどいとこや。無茶しよる」
相:「どないしたん?」
F:「足がどろどろや。雨が降ってどうにもならんよ」
相:「雨も降るやろ」
F:「雨の準備をすること、チームの責任者が前もって言うとくべきや」
相:「確かにね」
F:「ようけ人抱えてるんやから。これから働くのん、気が重いですわ」
相:「そういわんとやってや」
[数日が過ぎてF氏が私を訊ねる]
F:「やっぱり問題があるよあそこは」
相:「何があったん」
F:「作業時間が来たらさっさと終わるようにしてやらないけんわ。電車に間に合わん人間もいることだし」
相:「Fさんの帰りの電車が間に合わんの?」
F:「いやわしじゃない、遠方から来る人間が帰られんの。困っとるんよその人」
相:「あんたのことと違うんかいな」
F:「責任者というもんはちゃんと気づかないかんことや。配慮がない」
私が相談員でいる間こんな会話が幾度か続いた。彼の話の特徴は作業に積極的に取り組んでいながら終始後退的な表現をすることが特徴で、私自身、当初彼が言うのを真に受け、作業改善のため責任者に話し合いに行こうという気にさせられたこともあった。また、他人の行動も気になる人で、気に食わない人間は極悪非道扱いであったが、自分より弱い人間や困った状況の人たちには必要以上の同情心や気の使い方をした。
私は‘02年4月末『自立支援センターおおよど』を辞め、数ヶ月後にFさんの担当相談員から、彼は既に森林組合に雇用され能勢方面に通勤し、すでにアパートを借りて自立生活を始めているという事を聞いた。
その仕事を継続しているはずのF氏が私とN区で偶然再開したのは1年後の5月であった。釜ガ崎のドヤ(注11)を泊まり歩いていると話していたが、おそらくは野宿を重ねていると思われた。彼との再会が私にとっても大きな転換期になるのだが、その詳細は次章の趣旨だと思われるのでそちらに譲ることにする。
3.レコードコンサートとT君
T君はN区周辺で野宿して1年を過ごした。大阪市出身で高校を卒業したあと、卸業、小売り業、市場や運搬配達など短期内に職を転々とし、40歳くらいから建設作業員として飯場を渡り歩いていたらしい。
私が巡回相談員当時に面談し、その後Tさんの『自立支援センターおおよど』入所に立ち会った。入所後は私が彼のセンター内での担当者にもなった。‘48年生まれのT君は小柄で頭髪は後退しているが、いつも話す時は微笑していて若く見えた。ただ仕事が決まっても自分の都合でやめてしまうことが多かった。
[『自立支援センターおおよど』の食堂で ‘02年1月下旬]
相:「Tさんは音楽好き?」
T:「音楽は好きですよ。若い頃よく聴いてました」
相:「とくにどんな音楽が好き?」
T:「どっちかいえばフォークですね。フォークミュージック。陽水とか拓朗なんかやね。♪寂しさのつれづれに〜手紙を書いてます〜(歌う)。知ってるでしょ」
相:「僕は演歌とちがうんかなと思っていたから意外やった」
T:「演歌はあんまし聴きませんね」
相:「いっぺんレコード音楽会しょうか」
T:「それエエですね。是非やってほしい。フォークかけてくださいよ」
私の所蔵するアナログレコードは、30pLPで約1,000枚近く、EPドーナツ盤も100枚を越えていた。半数以上は英米ロックにブルースを加え、残りはジャズ及びクラッシックまたは邦楽ポップス(フォークなど)である。音楽好きの私は、センターの広間でこれまで集めたレコードを開放し、DJスタイルのレコードコンサートのプラン(注12)を試みていた。当事者たちの年齢はほぼ50代前半から60代に集約される。私の年齢と重なるために同時代性を感じ、音楽を聞きながら涙を流し、自らの失意を希望に変えていけたらとの発意であった。勿論私の趣味が基盤ではあったけれど。
特に男たちの青春期である‘70年前後の音楽現況(注13)は、英米のミュージックシーンが席巻し、その上美術、演劇・映画が相互に影響を競い合う混沌とした稀有な文化を見せた時代だった。千里丘陵での万国博覧会が催され、建築労働者の全国的な大量動員がまさに高度経済のさきがけを表象し、20歳代を鉄材とコンクリートで格闘していた男たちの生活の顛末が、今私の仕事になっているのだ。
コンサートを前に、彼らの音楽嗜好を確かめるため前述したリサーチがT氏へのインタビューであり、数十人の聞き取り結果はT氏の答えに代表されるものに加え、ロックに人気が集った。西成釜ヶ崎周辺のカラオケ喫茶では演歌が主流なので、ここでも演歌が人気をえるものとばかり思っていたので意外感と同時に、これなら自分のレコードを活用できると考えたのである。
私がセンターを退社する間コンサートを2回開催した。ともに30〜40人の利用者が集り、2時間の予定時間を1時間も上回って好評に終わった。涙を流す者や突然踊りだす男が登場し、またその多くがロックやフォークのジャケットを手にとり、過去の熱情を懐かしんでいた。今も会えば音楽会を開いてくれという男たちに出会うがT君もその一人である。
T君はセンター在寮中に市内の大学に派遣され、校内の営繕作業をしていた。その後アパートに入居したが退職。そして何とか大きなクリーニング会社にアルバイトとして入社した。この頃仕事そのものより、先輩格である職場の女性たちのたくましさについて話を聞いたことがある。彼女らは「よく仕事をする、てきぱきしている。不器用な僕は邪魔もの扱いされる」と言っていたから居づらかったのではなかろうか。その時は「仕事を覚えて君もテキパキいこや」とかいいながら別れてしまっていた。しかしT君もその後店をやめてしまった。
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[注8] 解体・仮枠・玉がけ:解体は、建物や施設構造物を取り壊す作業。作業は人力や重機を使って取り壊し、撤去されたそれぞれの廃材は各処分場で産業廃棄処分される。仮枠は、コンクリートを使用する土木用建築物を施工する際、生コンを流し込む型枠(仮枠)を組む作業を言う。木造建築の時代は大工が施工していたが、ビル建築の出現が仮枠大工を生んだ。玉がけは、現場でのクレーン作業で鉄材などの荷物を釣る際、荷物にロープをかける作業を言う。荷崩れを起こして危険をともなう。
[注9] R&D:researchanddevelopmentの略。研究開発。新しい産業の振興や知識の開発を目指すための調査探求を言う。とくに高度経済期の市場拡大理念に使われた言葉である。例えばイリッチは、「民衆によるサイエンスがもしも批判的テクノロジーに基礎を置かないならば、容易ならぬ困難が生じるだろう。民衆によるサイエンスは、あらかじめ決められた形式の自助を人々に押しつけることに関心をもつR&Dによって吸収される直接の危険にさらされている」(I.Illichp.201)と言っている。
[注10] 新就業者研修:大阪府森林組合が事業主体。「新規就業者研修」では森林で働く人材を養成する。基礎コース(基礎知識)、実技コース(実践)を学び、修了者は大阪府職業安定所(ハローワーク)に登録され、林業での新規雇用が発生した場合、ハローワークや府林業労働力確保支援センターより紹介される。しかし期間限定作業のため、安定雇用や安定収入を得たい失業者・野宿者にとってメリットにはならない。登録制の派遣仕事に変りはない。
[注11] ドヤ:簡易宿泊所のこと。釜ヶ崎を中心に約120軒。寄場に集る建設労働者たちの宿となる。
[注12] レコードコンサート:正式には「午後のディスクタイム」というイベントを施設利用者のために企画した。第1回目は‘60〜69年までのフォーク・ロック・歌謡曲を、第2回目は‘70〜80年までを同様なスタイルで、その時代の社会状況・事件・風俗などを織り交ぜながらお喋りし、アナログレコード(EP・LP)でDJした。
[注13]‘70年前後:世界の同世代に大きな影響を与えたビートルズの解散から、愛と平和のコンサート「ウッドストック」開催に発する音楽ムーブメントの始まりが、「中津川フォークジャンボリー」や「三里塚幻夜祭」「春一番コンサート」など様々な日本のフォーク・ロックコンサートイベントに影響を与えた。また、美術家A.ウォーホルが主宰するベルベット・アンダーグラウンドの音楽活動が、‘89年のチェコスロバキア内戦を無血で終息させた「ビロード革命」の遠因となったことは有名。アメリカンニューシネマの台頭は音楽とのコラボレーションを促し、日本のカウンターカルチャーにも大きな影響を与えた。ヒッピー文化は消費経済を疑い、私自身美術活動に関る因ともなった。ベトナム反戦運動の高揚時にはフォークソングや詩の朗読で抵抗を表す活動や、大麻の幻覚に起因するサイケデリックアート、サイケデリックサウンド、映像など、相互の影響が世界のメディアを席巻しサイケ風俗を蔓延させた。 |